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海の獲物が戻ってこない。人々が食べ物に困ったとき、海底の女神のもとへ降り、その髪のもつれを解くという話がある。北極圏のイヌイットの間で語り継がれてきた、海の女性の物語だ。広く知られる名の一つが、セドナである。
絡まった髪と、海に出てこない動物たち。その組み合わせは、遠い神話なのに、妙に具体的だ。なぜ髪をとかすことが、人間の暮らしを救う行為になるのだろう。
海の母には、傷ついた娘の過去がある
この物語の筋や主人公の名前は、地域や語り手によって異なる。カナダの博物館PAMAは、セドナをアザラシ、セイウチ、クジラなどの海の生きものをつかさどる存在として紹介する。獲物を得られるかどうかが、海の女性との関係にかかっているのである。
カナダの自然と文化を紹介するPolar Lifeの再話では、若い娘だったセドナは、人に化けていた鳥と結婚してしまう。娘の暮らしを知った父は鳥を殺し、娘を連れて舟で帰ろうとする。すると鳥の仲間が翼をあおぎ、海に嵐を起こした。恐れた父は娘を海へ落とし、船べりにつかまるその指まで切ってしまう。
海に落ちた指から、アザラシやセイウチ、クジラなどが生まれる。セドナ自身は海底へ沈み、海の生きものを支配する存在となった。この再話は複数の伝承をまとめたものと明記されており、どの土地でも同じ順序で語られる一つの原話、と考えることはできない。
ここには、海を思いのままにする強い女神と、自分を守ってもらえなかった娘の姿が重なる。人を養う海の生きものが、人から傷つけられた体の一部から生まれる。この結びつきには、簡単には明るく語り直せない痛みがある。
怒りを鎮めるのは、髪をとかす手
PAMAの解説では、セドナは長い髪に海の動物たちを留めているとされる。獲物を得られないとき、そのもとへ降り、髪をとかすのがシャマンだ。シャマンとは、人と精霊の世界をつなぐ役割を担う者のこと。髪をとかしてなだめられた海の女性は、動物たちを解き放つという。
私は、この「髪をとかす」という行為に、物語の重みを感じる。力のある相手を倒したり、命令して従わせたりするのではない。近くまで行き、相手の体に触れ、絡まりをほどく。指を失った女性に、誰かの手が届く場面として読むと、海底への旅が違って見える。
そう読むと、女神の怒りをただ気まぐれだと片付けたくなくなる。傷ついた過去があり、自分ではできないことがある。その相手と関係を結び直す行為として、髪をとかす場面を受け止めたい。

食べることは、海と関わることだった
海の動物は、人の暮らしに食べ物だけをもたらすわけではない。衣服や道具などにも関わる。PAMAは、イヌイットの物語に動物が多く登場する背景に、こうした生活との深い結びつきがあると説明している。
獲物が現れないことは、景色の中の動物が一匹減るだけの出来事ではなかった。家族を養い、寒さをしのぐ暮らしそのものが揺らぐ。海底の女性をたずねる話の切実さは、そこから考えたい。
そして、セドナは古い記録の中に閉じ込められた存在でもない。イヌイットの作家や工芸家は、いまも海の女性を作品にしている。Inuit Art Foundationが紹介するジュエリー作家、ブリトニー・ウルラク・ポーターは、セドナを描いた祖母の壁掛け作品から、自身の創作の着想を得たという。
祖母の壁掛けから、孫が手がけるジュエリーへ。同じ名前が新しい手仕事に現れるところにも、物語が続く道がある。海の女性の髪をほどく手と、いま作品を作る手。離れた二つを思い浮かべながら読むと、神話は過去の遠い海だけのものではなくなる。
この話の参考資料・写真の出典
- PAMA「Sedna: Inuit Goddess of the Sea」
- Polar Life「The Legend of Sedna」複数の伝承をまとめた再話
- Inuit Art Foundation「Brittney (Ullulaq) Porter」
冒頭の写真:カナダ・バフィン島のフィヨルド。セドナをめぐる伝承は、北極圏の各地で異なる形で語られる。 写真:Jsayre64 / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0、縮小・JPG変換)。


