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聖書を収めた本を開くと、角を生やした悪魔が、こちらを向いている。
小さな挿絵ではありません。ページを一面使って、たった一体。その本自体も、羊皮紙の一枚が縦約89センチ、横約49センチという大きさです。
13世紀、現在のチェコにあたるボヘミアで作られた巨大写本「コデックス・ギガス」。今はスウェーデン国立図書館に所蔵され、「悪魔の聖書」という異名でも知られています。
けれど、悪魔の絵だけを見て本を閉じてしまうのは惜しい。悪魔がいる右ページに向き合う、左の一枚。そこには、まったく違う世界が描かれているのです。
一冊の本に、いくつもの世界を入れる
「コデックス」は、巻物とは違い、紙や羊皮紙を重ねて綴じた冊子の形を指す言葉。「ギガス」は、巨人を意味します。名前のとおり、膝の上で気軽に開くには大きすぎる一冊です。
所蔵館の目録で中身を確かめると、旧約聖書、新約聖書に加え、ユダヤの歴史を扱った著作、さまざまな知識を集めた『語源誌』、医学の文章、ボヘミアの年代記などが並びます。本文はラテン語です。
歴史をたどる文章と、人の身体に関わる知識が、一冊に同居している。さらに末尾には、修道院に関係する人々の名や、亡くなった人の名を記した暦もあります。遠い過去の出来事とともに、修道院の人々が記憶にとどめようとした名前も残されているのです。
「悪魔の聖書」と呼ばれる一冊には、祈りと学問、修道院の記憶が収められていました。悪魔の絵も、こうした文章の間に置かれています。
悪魔の向かいには、誰もいない都がある
悪魔の絵があるのは、新約聖書と罪の告白の文章に続く見開きです。
左は「天上のエルサレム」。キリスト教で、救われた人々が暮らすとされる聖なる都です。その向かい、右のページに悪魔が描かれています。


左の都は、塔や城壁を幾重にも積み重ねたような姿。赤や緑の色が残り、建物がページの上下へ整然と続きます。ただ、人の姿は見当たりません。
右では、悪魔が脚を曲げ、両腕を上げて正面を向いています。角も、爪も、口元の赤い舌も目に入る。広い余白の中に、悪魔が一体だけ描かれています。
悪魔だけを切り取った画像と違い、この見開きでは、聖なる都と悪魔が同時に目に入ります。秩序ある建物の集まりと、ぽつんと取り残されたような一体。左右を見比べると、悪魔の孤独な姿がいっそう目立ちます。
善と悪、救いと破滅。そんな対比を表したようにも見えます。ただ、この見開きに、制作者の意図を説明する言葉は添えられていません。悪魔をここに置いた理由を考えるうえで、向かいの都は気になる手がかりです。
悪魔が手を貸したという伝説
これほど大きな本に、これほど目立つ悪魔がいる。やがて、この本の制作にも悪魔が関わったという伝説が語られるようになりました。
所蔵館の目録に引用された1635年の蔵書記録には、ある修道士が囚われの身でこの本を書き、悪魔が羊皮紙などを運んできたという話が残っています。
1648年の記録では、壁で閉ざされた場所にいる修道士のもとへ、悪魔が大きな本を持ってきた、と記されています。こちらでは、悪魔が本そのものを届ける役になっています。同じ一冊をめぐって、違う形の伝説が語られていたのです。
写本の制作時期は、所蔵目録では1204年から1230年の間とされています。悪魔の話が記された17世紀には、すでに数百年前の本でした。蔵書記録が伝えているのは、制作当時の出来事というより、後世の人々がこの本をどう語っていたかです。
この大きな紙面に文字を書き、絵を描き、一冊に綴じる。実物に目を戻すと、まずは、その途方もない手仕事に驚かされます。本の大きさや悪魔の肖像は、伝説を語り継ぐ人の想像も刺激したのかもしれません。
悪魔の絵の先には、呪文が続く
伝説を知ったあとで、もう一度ページの並びを見てみます。悪魔の絵があるページをめくると、今度は呪文の類にあたる文章が続きます。さらに先には、ボヘミアの年代記や、亡くなった人の名を記した暦も収められています。
知識、祈り、病への対処、目に見えない力への恐れ。現代なら別々の棚へ置きそうなものが、この一冊では隣り合っています。何を知り、何を恐れ、誰を覚えておくか。この本には、人々の関心がいくつも重なっています。
悪魔の絵に出会ったら、向かいの都も見てみる。そのあとで、もう一枚めくってみる。「悪魔の聖書」という異名の奥には、祈りも学問も、亡き人の名も書き留めた、一冊の大きな本があります。

