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死んだあと、自分の心臓が自分に不利なことを語り出すとしたら。古代エジプトでは、その心配に備える護符が作られた。大きな甲虫の形をした「心臓のスカラベ」だ。小さな石に、死後の審判をめぐる願いが託されている。
古代エジプトの信仰では、死者の心臓は秤にかけられ、その人の生き方と向き合う場面が来る。メトロポリタン美術館には、心臓が持ち主に不利な証言をしないよう求める呪文を刻んだ護符が残る。虫の姿は再生の象徴でもあった。
秤のもう一方に置かれるのは、秩序と正しさを表す女神マアトのしるしだ。心臓が釣り合えば、死者はその先へ進める。釣り合わなければ、怪物アメミトに食べられると考えられた。だから心臓は、ただの臓器ではない。死後の行方を左右する、沈黙してほしい証人でもあった。
心臓に向かって頼む
面白いのは、裁く相手ではなく、自分の心臓に語りかけているところだ。いちばん近くにあって、いちばん多くを知っているもの。だからこそ、勝手にしゃべってほしくない。死後の審判という大きな物語が、急に身近な恐れに変わる。
写真は、実際に残る心臓のスカラベの一つ。想像画と見比べると、手のひらに収まる物へ託された思いの重さが分かる。
呪文は甲虫の背中ではなく、平らな裏側に刻まれることがあった。『死者の書』の第三十章Bにあたる呪文で、心臓に「持ち主に逆らわないで」と頼む内容だ。外からは小さな虫に見える護符の、体に触れる側へ切実な言葉を置いたのである。

小さな石を、最後まで
古代エジプトには、生きている間に身に着ける護符も、死者の体に添える護符もあった。心臓のスカラベは後者の一つ。形、色、材質、刻まれた言葉などに力があると考えられたという。小さな石を選び、文字を刻む手間にも、死後に備える気持ちが表れている。
自分をいちばんよく知る心臓に、最後まで味方でいてほしい。スカラベの硬い背中を眺めると、そんな切実な願いが伝わってくる。
この話の参考資料
冒頭画像は題材から着想した再現画です。本文の実物写真の出典は画像の下に記しました。


