誰もいない帆船は、なぜ海を進んでいたのか

アマゾン号の名で航行していたころのメアリー・セレスト号を描いた絵 世界の不思議
1861年、アマゾン号と呼ばれていた頃の船を描いた絵。作者不詳/出典/Public Domain。JPEG変換。
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大西洋を進む船から、別の帆船が見えました。帆を上げているのに、動きがどこかおかしい。近づいても、人の姿は見えません。

1872年12月、イギリス船デイ・グラティア号の乗組員が見つけたのは、アメリカの商船メアリー・セレスト号でした。船に乗り移った人たちは、船内を調べます。荷物も、食料も残っている。けれど、船を動かしていたはずの人たちは一人もいませんでした。

船長と妻、幼い娘、そして乗組員たちは、どこへ行ったのでしょうか。後に「幽霊船」として語られるこの出来事には、当時の調査が残したことと、後から付け加えられた物語があります。

二隻の船が出会うまで

メアリー・セレスト号は1872年11月、ニューヨークからイタリアのジェノヴァへ向けて出港しました。積み荷は樽に入った工業用アルコールです。

船長はベンジャミン・ブリッグズ。船には妻のサラと幼い娘ソフィアも同乗し、船員たちを合わせて10人が乗っていました。家族を伴う船長にとって、船は仕事場であると同時に、長い航海を暮らす場所でもあったのです。

メアリー・セレスト号の船長ベンジャミン・ブリッグズ
ベンジャミン・ブリッグズ船長。撮影者不詳/出典/Public Domain。JPEG変換。

その後を、別の積み荷を運ぶデイ・グラティア号が出発します。発見されたとき、メアリー・セレスト号はアゾレス諸島から東へ離れた海上にいました。船に乗り移った人たちは、船内にたまった水を見つけます。

積み荷の大部分は残り、食料や水もありました。一方、救命用の小舟は見当たりません。船が浮いていたことは分かっても、乗っていた人たちが、いつ、なぜ小舟を使ったのかは分かりません。

船は沈んでいなかった

発見した側は、メアリー・セレスト号を港まで運ぶ必要がありました。デイ・グラティア号の一等航海士らが乗り込み、自分たちで帆を扱い、ジブラルタルへ向かいます。

船は無事に港へ着きました。無人で見つかった船を救い、持ち帰った人たちには、一般に報酬を求める手続きがあります。ジブラルタルの海事裁判所では、救助に対する支払いをめぐって、発見時の状況が調べられました。

船体の状態を調べた検査員ジョン・オースティンは、船を去る理由を見つけられないと報告しています。海底側を調べた潜水夫も、衝突などを示す明らかな損傷を報告しませんでした。残された船の状態が、かえって疑問を深くしたのです。

ただし、港で調べたときに沈んでいなかったことから、乗っていた人たちが航海中に何を心配したかまでは分かりません。発見後の状態と、その前に船上で見えていた状況は、同じとは限らないからです。参考ニュー・ベッドフォード捕鯨博物館の資料

残された航海の記録

最後の航海について、研究者が頼りにしてきたものの一つが、当時の航海記録を写したものです。スミソニアンの紹介によれば、記録には11月下旬にアゾレス諸島付近にいたことが残っていました。

一等航海士オリバー・ドゥヴォーの証言として伝えられる記録では、船室にあった航海日誌と、日々の記録を書き留める石板の記載には、一日ほどの違いがありました。石板には、島を確認したことが書かれていたといいます。

発見された場所は、そこから東へ離れています。最後の記録と、別の船に見つかった時点。その間に船がどのように進んだのかを考えるため、海流や風の情報を使って航路を調べた人もいます。

ただ、航路をたどれても、船から人がいなくなった場所や時刻まで確定するわけではありません。記録が書かれた直後に退船したのか、その後もしばらく航海が続いたのか。記録の終わりは、そのまま最後の瞬間を意味するわけではないのです。

調査に携わった人たちは、ポンプの故障や船底の水を心配し、島が見えるうちに船を離れた可能性を考えました。もっとも、それは残された情報を組み合わせた仮説です。ポンプについては、分解されていたとする後年の調査紹介がある一方、最初に乗り移ったドゥヴォーは、測ったポンプは良好だったと証言しています。どちらの記述が何を指すのかを含め、故障を確定した事実として扱うことはできません。船長の判断を記した証言や、全員の行方を示す記録が見つかったわけではありません。参考スミソニアンの調査紹介

物語の中で変わった船

この事件が有名になるにつれ、船の様子にはさまざまな細部が添えられました。食卓に食事が残り、船員たちが何かに驚いて一斉に消えたかのような話も、その一つです。

1884年には、後にシャーロック・ホームズの作者として知られるアーサー・コナン・ドイルが、この事件をもとにした短編を発表しました。そこに登場する船の名は、実際の船と少し違う「マリー・セレスト」。作者は実際の出来事をそのまま報告したのではなく、人物や筋を作って物語にしています。

無人で漂っていた船という事実は、それだけで想像を誘います。けれど、小説を読んで得た場面を当時の証言に戻してしまうと、何が分かっていて、何が分からないのかが見えにくくなります。

港に戻った後の船

人々の行方が分からないまま、メアリー・セレスト号の航海は終わりませんでした。船は調査後に再び使われ、別の船長のもとで海へ戻っています。

誰もいない船が、港まで運ばれ、また積み荷を載せる。その事実は、漂流していたときの船が、少なくとも航海を続けられる状態にあったことを伝えます。同時に、それがなぜ10人の不在につながったのかという問いは残りました。

見つかった船の中身を一つずつ確かめても、人々が最後に何を見て、どんな判断をしたのかまでは語ってくれません。海の上を進み続けた船と、その船に戻らなかった人たち。その間に何があったのかは、今も分かっていません。