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茶色い包み紙には、郵便料金の表示や、赤い郵便の印が残っています。宛先は、アメリカのスミソニアン協会。1958年にニューヨークから送られた、書留の包みです。
中に入っていたのは、深い青色の宝石「ホープ・ダイヤモンド」。持ち主に不幸をもたらすという噂で知られたダイヤでした。
貴重な宝石を、なぜ郵便で送ったのでしょう。そして、包み紙にはどんな記録が残されているのでしょうか。
茶色い包みで届いた宝石
ホープ・ダイヤモンドをスミソニアン協会に寄贈したのは、宝石商ハリー・ウィンストンです。ダイヤを箱に入れて茶色い紙で包み、書留郵便で送りました。
高価な品には、特別な車や護衛を用意しそうにも思えます。けれども、長年、世界各地へ宝石を送ってきたウィンストンは、書留を安全な方法と考えていました。
荷物はニューヨークからワシントンへ運ばれ、配達員が国立自然史博物館へ届けます。寄贈の手続きを終えた青いダイヤは、その後、博物館のコレクションとなりました。参考国立郵便博物館の解説
宝石だけでなく、それを包んでいた紙も残されています。差出人や宛先、配達に関する文字、郵便料金の表示。宝石がどう移動したかを伝える品として、今は国立郵便博物館の所蔵品になっています。

青い宝石をめぐる噂
ホープ・ダイヤモンドの来歴は長く、王家の宝石や、ロンドンのホープ家のコレクションへとつながります。「ホープ」という名前も、この家に由来します。
宝石の来歴には、姿を変えた時期もあります。国立自然史博物館によれば、フランス王家の大きな青いダイヤは、1792年に王冠の宝石が盗まれた際に姿を消しました。約20年後の1812年、ロンドンでより小さく研磨された青いダイヤの記録が現れます。
博物館は、後に見つかった元の宝石の鉛型とコンピューターによる比較などから、ホープ・ダイヤがその青い石を削り直したものだと説明しています。いつ、誰の手で削られたのかは分かっていません。石の形が変われば、古い記録にある宝石と同じものだと結びつけるのも容易ではありませんでした。
寄贈者ウィンストンの手に渡った後、ダイヤは巡回展示にも加えられました。各地で人々に見せられた宝石が、最後は書留で博物館へ向かう。その移動の記録が、冒頭の包み紙に残っています。
その長い歴史の途中に、持ち主の不幸を結びつけた話が加わっていきました。スミソニアン国立自然史博物館によれば、呪いについての早い時期の記事の一つは、1908年の新聞に載っています。
記事は、それまでの持ち主たちの苦難を並べ、宝石には人を災いへ導く力があるかのように語っていました。きらめく宝石の履歴は、読み手の目を引く不穏な物語にもなったのです。
ただし、人が財産を失ったり、事故に遭ったりしたことと、その原因がダイヤにあったことは別です。宝石の歴史とともに伝えられる話の中には、事実と違うものもありました。参考国立自然史博物館・ホープ・ダイヤモンドの来歴
船に乗っていなかった持ち主
国立自然史博物館が紹介する1909年の新聞記事は、かつてこのダイヤを所有していた宝石商セリム・ハビブが、船の遭難で亡くなったと報じました。宝石も一緒に船にあったと伝える内容でした。
以前の持ち主が海で亡くなり、青いダイヤまで沈んだ。すでに呪いの噂を知っている人には、また一つの不幸がつながったように見えたかもしれません。
ところが、国立自然史博物館が調べた来歴では、宝石商のハビブもホープ・ダイヤも、その船には乗っていませんでした。同姓同名の別人が遭難したとみられています。
しかも、宝石商はその年のうちにダイヤを手放していました。新聞に載った名前は実在していても、誰のことかを取り違えれば、宝石の物語は大きく変わってしまう。報道の誤りは、不幸を積み重ねた呪いの話に、さらに一つの出来事を与えました。
宝石商が語った物語
その後、ホープ・ダイヤモンドは宝飾店カルティエの手に渡ります。販売を担当したピエール・カルティエは、アメリカの富裕な夫妻、エドワードとエヴァリン・ウォルシュ・マクリーンに宝石を見せました。
彼が語ったのは、青いダイヤの姿だけではありません。以前の持ち主たちに不運をもたらしたという、呪いを含む来歴でした。国立自然史博物館は、カルティエが販売のために物語を脚色した可能性を指摘しています。
もっとも、呪いの話は彼の商談より前から新聞に登場しています。カルティエ一人が最初から作り出した、と決めることはできません。
博物館が紹介するマクリーン本人の回想によれば、彼女は話に興味を示したものの、最初は宝石の留め方が気に入りませんでした。カルティエはダイヤの枠を作り直し、後に夫妻へ届けます。週末の間、手元に置いた夫妻は、その数か月後に購入を決めました。
呪いの噂があれば、それを手に取る人も怖がって遠ざかる、とばかりは限りません。宝石の周りについた物語もまた、宝石を見せる場に持ち込まれていたのです。
博物館に残ったもう一つの品
マクリーンの死後、ウィンストンはその遺産から宝石を買い取り、後にスミソニアン協会へ寄贈しました。呪いの話で知られるダイヤは、博物館で多くの人が見ることのできる品になります。
一方、配送に使われた包み紙にも、別の役目が残りました。郵便料金の表示や印、住所は、ダイヤが書留として運ばれたことを示しています。参考ホープ・ダイヤモンドの包み紙の所蔵記録
持ち主たちについて語られた話は、ときに新聞の誤報まで取り込みながら広がりました。茶色い紙に残るのは、その宝石が1958年に博物館へ届けられた、小包の記録です。


